データが語る健康経営の真実:数字の向こうに見える人間の健康
「健康経営のROIは6:1である」──この数字を、私は何度となく目にしてきた。企業が従業員の健康に1ドル投資するごとに、6ドルのリターンが得られる。健康経営の推進者たちが好んで引用するこのデータは、Baicker et al.(2010)のメタ分析に由来する。美しい数字だ。しかし、私はこの数字に対して、ずっと微妙な違和感を抱いてきた。数字は事実を語るが、事実のすべてを語るわけではない。そして、健康経営の「真実」は、ROIの数字だけでは捉えきれないもっと複雑で、もっと人間的なものだと考えている。
健康経営の「ROI」を疑う視点
2019年、Journal of the American Medical Association(JAMA)に掲載されたJones et al.の研究は、健康経営業界に冷水を浴びせた。この研究は、BJ's Wholesale Club(米国の大型小売チェーン)の160事業所を対象としたクラスターランダム化比較試験(RCT)であり、職場ウェルネスプログラムの効果を18か月にわたって検証した。結果は、健康行動(運動習慣、体重管理など)において一部の改善が見られたものの、医療費の削減、欠勤率の低下、生産性の向上のいずれにおいても統計的に有意な効果は認められなかった。つまり、最も厳密なエビデンスレベルであるRCTにおいて、職場ウェルネスプログラムの経済的リターンは証明できなかったのである。
しかし、私はこの結果を「健康経営は無意味だ」という結論に直結させるべきではないと考えている。そう単純ではないからだ。まず、Jones et al.の研究は18か月という比較的短い追跡期間であった。健康行動の変化が医療費に反映されるまでには、通常3~5年以上のタイムラグがある。また、この研究が測定したのは主にアブセンティーイズム(absenteeism:欠勤)であり、プレゼンティーイズム(presenteeism:出勤しているが体調不良やメンタルヘルスの問題により生産性が低下している状態)への影響は十分に評価されていなかった。Goetzel et al.(2014)がJournal of Occupational and Environmental Medicineに発表したレビューでは、プレゼンティーイズムによる損失はアブセンティーイズムの2~3倍に達するとされている。見えるコスト(欠勤)だけを測定しても、健康経営の全体像は見えてこない。
さらに、Berry et al.(2010)がHarvard Business Reviewに寄稿した論文では、健康経営の効果は「医療費削減」だけでなく、「採用力の向上」「従業員エンゲージメントの向上」「企業ブランドの強化」など、定量化しにくい多面的なリターンをもたらすと指摘している。ROIという単一の指標で健康経営を評価すること自体が、その本質を見誤る原因になりうるのだ。
J&Jが証明した「30年の投資」
Jones et al.の研究が「短期的なROI」に疑問を投げかけた一方で、長期的な健康投資の効果を最も説得力をもって示した事例が、Johnson & Johnson(J&J)のHealth & Wellness Programである。J&Jは1979年──今から約半世紀前──に、従業員の健康増進プログラム「Live for Life」を開始した。禁煙支援、運動促進、栄養改善、ストレス管理、高血圧・高コレステロールのスクリーニングなど、包括的なプログラムを全世界の従業員に提供してきた。
Henke et al.(2011)がJournal of Occupational and Environmental Medicineに発表した分析によれば、J&Jは1979年から2009年の30年間で、従業員の健康プログラムに投資した結果、推定2億5,000万ドル(約250億円)の医療費を削減した。従業員1人あたりに換算すると、年間565ドルの投資リターンである。さらに重要なのは、J&Jの従業員の喫煙率が26%から4%に低下し、高血圧の有病率と高コレステロールの有病率がいずれも大幅に減少したという事実である。
J&Jの事例が教えてくれるのは、健康経営の効果は「短期的なプログラムの導入」ではなく、「数十年にわたる組織文化の変革」によって初めて発現するということだ。18か月のRCTでROIが出ないからといって、健康投資は無意味だと結論づけるのは早計である。しかし同時に、30年のコミットメントを持てる企業がどれほどあるかという現実的な問いもある。私はこの矛盾の中にこそ、健康経営の本質的な課題があると感じている。
日本の健康経営:経産省認定制度の光と影
日本における健康経営の推進において、大きな役割を果たしているのが経済産業省の「健康経営優良法人認定制度」である。2017年に創設されたこの制度は、従業員の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践する法人を顕彰するものであり、2024年度には大規模法人部門・中小規模法人部門合わせて3,500社以上が認定を受けた。日本政策投資銀行(DBJ)の研究では、健康経営銘柄に選定された企業群の株価パフォーマンスがTOPIXを上回るという分析結果も報告されている。
しかし、私はこの制度に対して光と影の両面を見ている。「光」の部分は明白だ。認定制度の存在が、健康経営に対する経営層の関心を高め、予算獲得の根拠となり、従業員の健康への投資を「コスト」ではなく「戦略的投資」として位置づける文化的転換を促した。これは極めて大きな功績である。一方で、「影」の部分──私が懸念しているのは、認定取得そのものが目的化する「チェックリスト主義」の蔓延である。認定基準を満たすために形式的な施策を導入し、認定マークを取得することが経営目標になってしまう。その結果、従業員の健康が実際に改善されたかどうかではなく、「何項目チェックが入ったか」が評価軸になる。これでは本末転倒だ。
私がReFitを起業した動機の一つは、まさにこの「形式と実質の乖離」への問題意識にある。健康経営は、認定を取得するためのものではなく、目の前の従業員一人ひとりの健康を実質的に改善するためのものでなければならない。そしてそのためには、画一的なプログラムではなく、個人の状態やニーズに合わせたパーソナライズドなアプローチが不可欠だと考えている。
データの向こうに見える「人」
私がReFitを起業する以前、フリーランスのパーソナルトレーナーとして1,500名以上のクライアントを指導してきた。この経験の中で、私が最も強く実感したのは、「数字に現れない変化」の重要性である。体重が3kg減少した。体脂肪率が2%下がった。ベンチプレスの重量が10kg増えた。こうした数字は確かに重要であり、クライアントのモチベーションにもなる。しかし、私が目の当たりにした最も大きな変化は、数字ではなかった。
それは、長年の肩こりに悩んでいたオフィスワーカーが「最近、肩のことを忘れている自分に気づきました」と笑顔で話してくれた瞬間であり、メンタルヘルスの問題で休職していた方が「朝、身体を動かすと一日の見通しが立つようになった」と語ってくれた瞬間であり、定年後の高齢者が「孫と公園で遊べるようになった」と教えてくれた瞬間であった。これらの変化は、医療費削減のデータには現れないし、ROIの計算には含まれない。しかし、これこそが「健康」の本質ではないのか。自己効力感(self-efficacy)──「自分はできる」という確信──の回復。日常生活の質(QOL)の向上。社会的つながりの再構築。これらは定量化が困難であるがゆえに、データ駆動型の健康経営においては見落とされがちだ。
私は「運動は治療ではなく、日常そのもの」という信念を持っている。健康は、病院で処方されるものでも、年に一度の健康診断で確認されるものでもなく、毎日の生活の中で──歩くこと、身体を動かすこと、良い食事を摂ること、十分に眠ること、人とつながること──積み重ねられるものだ。データはその積み重ねの一断面を映す鏡に過ぎない。鏡を見ることは大切だが、鏡だけを見ていては、映っている「人」そのものを見失う。
これからの健康経営:個人と組織の交差点
では、これからの健康経営はどうあるべきか。私は、三つの方向性が重要だと考えている。第一に、パーソナライズドウェルネスの実現である。従業員は一人ひとり異なる身体、異なる生活環境、異なるニーズを持っている。全員に同じ歩数目標を課し、同じ健康セミナーを受講させるアプローチでは、最も支援を必要とする層に届かない。ウェアラブルデバイスの普及により、個人の活動量、睡眠パターン、心拍変動などのリアルタイムデータが取得可能になっている。このデータを活用して、個人に最適化されたフィードバックと介入プログラムを提供すること──これが次世代の健康経営の基盤になるだろう。
ただし、ウェアラブルデータの活用には重大な倫理的課題が伴う。従業員の健康データを企業が収集・分析することは、プライバシーの侵害や差別的な人事判断につながるリスクがある。「あなたの睡眠時間が短いから昇進を見送る」──こうした事態は断じて許されない。健康データは、あくまでも従業員自身のウェルビーイング向上のために使われるべきであり、企業による監視や評価のツールになってはならない。この倫理的境界線を明確に引くことが、データ駆動型の健康経営の前提条件である。
第二に、予防医学とテクノロジーの融合である。HORIZONの記事で繰り返し取り上げてきたように、予防医学の最新知見──腸内マイクロバイオーム、セノリティクス、エピジェネティクス、社会的つながりの健康効果──は、従来の「メタボ検診」の枠組みを大きく超えている。これらの知見を企業の健康プログラムに翻訳し、実装していくこと。それが、科学と実践をつなぐHORIZONの、そしてReFitの役割だと私は考えている。第三に、そして最も根本的に、健康経営を「組織のための施策」から「個人と組織が交差する場」へと再定義することである。企業が健康に投資する理由は、生産性向上でも医療費削減でもなく、「人を大切にする」という組織の意志の表明であるべきだ。その意志が従業員に伝わったとき、数字には現れない──しかし確かに存在する──信頼と帰属意識が生まれる。それこそが、最も持続可能な「投資リターン」ではないだろうか。
出典・参考文献
- Jones, D. et al. "What Do Workplace Wellness Programs Do? Evidence from the Illinois Workplace Wellness Study." The Quarterly Journal of Economics, 134(4), 1747-1791, 2019. (Also reported in JAMA Internal Medicine and Health Affairs)
- Henke, R.M. et al. "Recent Experience in Health Promotion at Johnson & Johnson: Lower Health Spending, Strong Return on Investment." Health Affairs, 30(3), 490-499, 2011. (Also published in JOEM)
- 経済産業省「健康経営の推進について」令和6年度版, 2024年.
- Berry, L.L. et al. "What's the Hard Return on Employee Wellness Programs?" Harvard Business Review, 88(12), 104-112, 2010.
- Goetzel, R.Z. et al. "Do Workplace Health Promotion (Wellness) Programs Work?" Journal of Occupational and Environmental Medicine, 56(9), 927-934, 2014.
- Baicker, K. et al. "Workplace Wellness Programs Can Generate Savings." Health Affairs, 29(2), 304-311, 2010.
- 日本政策投資銀行「健康経営格付」融資・研究レポート各年版.
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