健康格差の構造:社会的決定要因とは何か
「健康は自己責任である」──この言葉は、日本社会において根深く浸透している。不健康な食事をするのは本人の選択であり、運動しないのも怠惰の結果であり、病気になるのは自業自得だ、と。しかし、半世紀以上にわたる公衆衛生研究が示しているのは、まったく異なる現実である。人の健康を最も強く規定するのは、個人の生活習慣ではなく、その人が生まれ、育ち、働き、老いる社会的環境──すなわち「健康の社会的決定要因(Social Determinants of Health: SDH)」なのだ。
健康は「自己責任」ではない:社会的決定要因の概念
世界保健機関(WHO)は2008年、「健康の社会的決定要因に関する委員会(CSDH)」の最終報告書『Closing the Gap in a Generation』を発表した。この報告書は、健康格差の根本原因が「日常生活の条件」──すなわち、人々が生まれ、成長し、生活し、働き、老いる環境──と、それを形成する「権力・資金・資源の不平等な分配」にあると明確に指摘した。つまり、健康格差は「自然な」現象ではなく、政策と社会構造によって作り出された人為的な不平等なのである。
この認識を最も雄弁に語ってきたのが、英国の疫学者マイケル・マーモット(Michael Marmot)である。マーモットは2005年のLancet論文において、「社会的地位の勾配に沿って、健康もまた勾配を描く」と述べた。これは「健康格差の社会的勾配(social gradient in health)」と呼ばれる現象であり、最も貧しい人々だけが不健康なのではなく、社会階層のすべてのレベルで、一つ上の階層よりも健康状態が悪いという普遍的なパターンを指す。所得、教育水準、居住地域、雇用形態──これらの社会的要因が、栄養、運動、喫煙、飲酒、ストレス、医療アクセスといった健康行動と健康アウトカムの両方を規定しているのである。
重要なのは、SDHの影響は個人の「意志の強さ」では容易に克服できない構造的なものだという点である。例えば、低所得地域に住む人がバランスの良い食事を摂りたいと望んでも、近隣にスーパーマーケットがなく、あるのはファストフード店だけという「フードデザート(食の砂漠)」の問題がある。運動習慣を持ちたくても、安全な公園や歩道のない地域では、それは困難を極める。健康は「選択」であると同時に、選択肢そのものが社会構造によって制約されているのだ。
Whitehall Studies:英国公務員が教えてくれたこと
健康の社会的決定要因に関する研究で、最も影響力のある知見を提供したのが、英国の「Whitehall Studies(ホワイトホール研究)」である。第1次ホワイトホール研究は、Marmot et al.(1978)により、ロンドンの英国政府省庁で働く約18,000人の男性公務員を対象に開始された。この研究の革新性は、対象者が全員「安定した雇用」と「医療アクセス」を持つ公務員であったことにある。つまり、絶対的な貧困や医療の欠如を排除した上で、社会的地位と健康の関係を検証できたのである。
結果は衝撃的だった。最も低い職位(メッセンジャーなど)の公務員の心疾患による死亡率は、最も高い職位(管理職・専門職)の公務員の約4倍に達した。この格差は、喫煙、血圧、コレステロール、肥満といった既知のリスクファクターで調整しても、完全には説明できなかった。つまり、職位そのもの──あるいは職位に伴う何か──が、心臓病リスクに独立した影響を与えていたのである。
1991年に開始された第2次ホワイトホール研究(Whitehall II)では、女性も対象に含められ、心理社会的要因の役割がより詳細に分析された。ここで浮かび上がったのが「コントロール感(job control)」の重要性である。仕事における裁量権──いつ何をどのように行うかを自分で決められる度合い──が低い職位ほど、心疾患リスクが高かった。マーモットはこの知見を「ステータス・シンドローム(status syndrome)」と名づけ、社会的地位の低さがもたらす慢性的なストレスが、視床下部-下垂体-副腎(HPA)軸の持続的な活性化を通じて、心血管系に直接的なダメージを与えるメカニズムを提唱した。Whitehall Studiesは、「健康格差は貧困の問題ではなく、社会的地位の勾配の問題である」ことを実証的に示した、公衆衛生史上最も重要な研究の一つである。
所得と寿命:アメリカの巨大データが示す格差
社会的地位と健康の関連を、最大規模のデータで検証したのが、Chetty et al.(2016)がJAMAに発表した研究である。この研究は、米国の14億件の税務記録と死亡記録をリンクさせ、所得と期待余命の関係を分析した。その規模と精度において、公衆衛生研究の歴史上類を見ないものであった。
結果は明瞭だった。所得上位1%の男性と下位1%の男性の間の期待余命の差は14.6年であった。女性では10.1年。この格差は、「先進国」を自称するアメリカ国内において、最も裕福な人々と最も貧しい人々の間に、実質的に「異なる国に住んでいる」ほどの寿命差が存在することを意味する。例えば、2001年時点で所得下位1%の40歳男性の期待余命は72.7歳であったのに対し、所得上位1%では87.3歳であった。
さらに注目すべきは、地域間格差の存在である。低所得者の期待余命は、居住地域によって大きく異なっていた。ニューヨーク市やサンフランシスコなどの都市に住む低所得者は、デトロイトやゲイリー(インディアナ州)に住む低所得者よりも数年長く生きていた。Chettyらの分析では、低所得者の寿命が長い地域は、喫煙率が低く、運動率が高く、公共サービスへの支出が多い地域と相関していた。これは、個人の所得そのものが健康を決めるのではなく、所得が「買える環境」──安全な住居、良質な食品、運動の機会、社会的ネットワーク──が健康を規定していることを強く示唆している。
日本における健康格差
「格差社会」は日本でもしばしば議論されるが、健康格差に関する実証的なデータは、欧米と比較して限られてきた。しかし、近年の研究は、日本においても深刻な健康格差が存在することを明らかにしている。都道府県別の健康寿命を見ると、最長の都道府県と最短の都道府県の間には男女ともに約3年の差がある(厚生労働省「健康寿命の都道府県格差」)。3年という数字は、一見小さく見えるかもしれないが、これは集団の平均値の差であり、個人レベルの格差はこれよりはるかに大きい。
国民健康・栄養調査の所得別データも、明確な社会的勾配を示している。世帯所得200万円未満の層では、600万円以上の層と比較して、野菜摂取量が少なく、習慣的な運動の割合が低く、肥満率が高く、喫煙率が高い。これらの生活習慣の差は、「低所得者は自己管理ができない」という個人責任論では説明できない。より正確には、低所得層は長時間労働や不安定雇用により時間的余裕がなく、安価で高カロリーな食品に頼らざるを得ず、ストレス解消手段が限られているという構造的要因が背景にある。
日本の健康格差研究を牽引してきたのが、千葉大学予防医学センターの近藤克則教授と、彼が主導するJAGESプロジェクト(日本老年学的評価研究:Japan Gerontological Evaluation Study)である。近藤は著書『健康格差社会──何が心と健康を蝕むのか』(2005年)において、日本社会における健康格差の実態を系統的に示した。JAGESは約30万人の高齢者を対象とした大規模コホート研究であり、所得、教育、社会参加、地域のソーシャルキャピタル(社会的結束力)が高齢者の要介護リスクや認知症発症リスクに影響を与えることを実証してきた。特に、社会参加(ボランティアや趣味の活動など)の機会が少ない高齢者ほど、要介護状態になるリスクが高いという知見は、健康格差対策において「社会的つながり」の重要性を示している。
格差を是正するために:政策と企業の役割
健康格差が社会構造の産物であるならば、その是正もまた、個人の努力ではなく社会の構造変革によってなされるべきである。この考え方を体系化したのが、「Health in All Policies(HiAP:すべての政策に健康を)」アプローチである。HiAPは、健康政策を保健医療分野だけに閉じ込めず、都市計画、交通、教育、雇用、住宅、環境など、すべての政策領域において健康への影響を考慮すべきだという原則である。フィンランドが2006年のEU議長国時代に提唱し、WHOも採択している。
マーモットが2010年に英国政府に提出した「Marmot Review: Fair Society, Healthy Lives」は、健康格差是正のための6つの政策提言を示した。第一に、すべての子どもに人生の最良のスタートを与えること。第二に、すべての子ども・若者・成人が能力を最大限に発揮し、自らの生活をコントロールできるようにすること。第三に、すべての人に公正な雇用と良好な労働環境を保障すること。第四に、すべての人に健康的な生活水準を確保すること。第五に、健康で持続可能な場所とコミュニティを構築すること。そして第六に、予防の役割と影響を強化すること。マーモットが繰り返し強調するのは「プロポーショネイト・ユニバーサリズム(proportionate universalism)」──すなわち、普遍的な政策をベースとしつつ、その規模と強度を社会的不利の度合いに比例させるべきだという原則である。
企業もまた、健康格差の是正において重要な役割を担う。「健康経営」の文脈では、従業員の健康促進が企業の生産性向上と医療費削減につながるとされるが、ここで見落とされがちなのは、健康経営の恩恵が全従業員に等しく行き渡っているかという公平性の問題である。健康促進プログラムの利用率は、一般に教育水準が高く、もともと健康意識の高い従業員に偏る傾向がある。真に効果的な健康経営とは、最もリスクの高い従業員──非正規雇用者、夜勤労働者、低賃金労働者──にこそ重点的にリソースを配分するものでなければならない。健康格差は、個人の問題ではなく、社会の問題である。そしてその解決は、社会全体の利益──経済的にも、倫理的にも──に直結している。
出典・参考文献
- Commission on Social Determinants of Health (CSDH). "Closing the gap in a generation: Health equity through action on the social determinants of health." Final Report of the CSDH, World Health Organization, Geneva, 2008.
- Marmot, M. "Social determinants of health inequalities." The Lancet, 365(9464), 1099-1104, 2005.
- Chetty, R. et al. "The Association Between Income and Life Expectancy in the United States, 2001-2014." JAMA, 315(16), 1750-1766, 2016.
- 近藤克則『健康格差社会──何が心と健康を蝕むのか』医学書院, 2005年.
- Marmot, M. et al. "Fair Society, Healthy Lives: The Marmot Review." Strategic Review of Health Inequalities in England Post-2010, London, 2010.
- Marmot, M.G. et al. "Employment grade and coronary heart disease in British civil servants." Journal of Epidemiology and Community Health, 32(4), 244-249, 1978.
- Marmot, M.G. et al. "Health inequalities among British civil servants: the Whitehall II study." The Lancet, 337(8754), 1387-1393, 1991.
- 近藤克則 et al. JAGES(日本老年学的評価研究)プロジェクト. 千葉大学予防医学センター.
- 厚生労働省「国民健康・栄養調査」各年版.
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